台湾に残る日本時代の遺構を歩く

       (朝日新聞国際版&自由新聞に掲載した記事より一部修正済み)

    

           目次

炭坑の町に今も残る鳥居(台北県・瑞芳鎮)
台北公会堂(現・中山堂)
タイヤルの里に残る弾薬庫(宜蘭県・大同郷)
墓地の中に残った招魂碑(台北県・瑞芳鎮)
「オンシン(温泉)」という地名を訪ねる(台東県・カナロン)
山に残る神社を訪ねる−シパジー社の鳥居(新竹県・五峯)
信仰の対象となった記念碑(花蓮県・吉安郷) 
生活風景に染まった派出所―東埔温泉(南投県) 
武徳殿を訪ねる(彰化市)
もっとも美しいと言われた駅舎―新竹駅(新竹市)
白川という村の神社は今(花蓮県・瑞穂郷)
山郷に残る日本旅館−関仔嶺温泉(台南県・白河鎮)
昔ながらの温泉宿を訪ねるー紅葉温泉(花蓮県・瑞穂郷)
残された国旗掲揚台―旧知本国民学校(台東県・台東市)
山郷の診療所を訪ねるー共栄診療所(台東県・台東市)

         

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炭坑の町に今も残る鳥居(台北県・瑞芳鎮)

                  

 候洞は台湾の北部小さな集落。台北からは列車で約1時間ほどの距離のところにある。   ここは、日本時代に炭坑の町として開かれ、その後、大きく発展をみた。終戦後も日本時代の採掘施設がそのまま利用され、一帯は名実ともに「台湾最大の鉱山」の名を欲しいままにしていたが、約20年ほど前に閉山。その後は凋落の一途をたどった。現在は廃墟となった精練施 設がわびしく風雨にさらされている。

 候洞の町は駅から基隆河をへだてた対岸にある。駅から歩いて10分ほど。川を渡りきったところに、終戦後にできた新市街で、そこからさらに5分ほどすすんだところが、旧市街である。新市街にはモルタル造りの建物が数軒並んでいるが、これらは全て、炭坑関係者の住宅なのだという。ヤマは閉山したが、この土地を離れない人も多くいるようだ。

 この町のはずれに日本人が建てた神社の跡がある。炭坑で働く労働者が、日々の安全を祈るために建てられたものだという。坂道を30分ほど進んで、ここを訪ねてみることにした。

 神社跡には鳥居が残っていた。神社そのものが集落から遠く、目立たぬ場所にあるためか、人通りはほとんどない。しかも敷地全体が草木に深く覆われており、注意していないと見落としてしまいそうだ。

 鳥居は神社の入口と拝殿の前にあった。鳥居の柱には「奉献」の2文字がはっきりと確認できる。この神社は炭坑の採掘会社が建てたもので、坑夫たちは毎日ここにお参りをしてから職場へ向かったのだという。道路から本殿まで続いていた石段も日本時代のまま残っている。

 本殿と拝殿は完全に撤去されている。本殿跡にはいくつかのベンチが無造作に並べられている。そして、拝殿のあった空間は涼亭と呼ばれる中国風の夕涼み台が建てられており、当時の様子を偲ぶことは全くできない。

 本殿があったと思われるあたりに立ってみると、川をはさんで、候洞の駅がよく見える。敗戦によって、日本人がこの町を去ってから、半世紀以上が過ぎた今、この神社の存在を知る人は少ない。それでも、数年に一度、この町を去っていった坑夫たちが昔を懐かしんでやってくることがあるという。

 日本人が去って、うち捨てられた神社。残された鳥居は今日も無言でこの町の様子を見続けている。

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台北公会堂(現・中山堂)の歴史をひもとく

 台北駅から商店街を抜けて、歩くこと15分。林立するビルとデパートに囲まれた道路を進むと、古くて大きな石造りの建物が目に入ってくる。これが旧台北公会堂だ。戦後、中華民国建国の父・孫文(孫中山)にちなみ、中山堂と名を変えて、現在に至っている。

 8年間という歳月をかけて建てられたこの建物は、昭和天皇の即位を記念して、1936年に完成した。地上4階建てで、敷地総面積は1240坪。館内には3つのホールを有している。現在もなお、市内有数の規模を誇る多目的ホールである。当時は珍しかった大きな舞台やカフェテリアなども備えている。

 ここでは毎日のように演劇や舞台の公演が催され、多くの人々で賑わったという。結婚式や各種表彰式なども多かった。しかし、ここで行われた最大の行事と言えば、やはり1945年10月25日の台湾地区の降伏式典であろう。この日は現在、光復節として、国定の祝日となっている。

 降伏式典そのものは非常に簡素なものだったというが、半世紀に及ぶ日本の支配から解放された台湾人の喜びようは想像に難くない。この時点では、国民党と外省人支配による受難の日々が待ち受けていることは誰として知るよしもなかった。

 さて、この土地はもともと、清朝の行政中枢ともいうべき布政使司衙門があったところ。公会堂の建物はこれを撤去して作られたものだ。このすぐ隣りには巡撫衙門(現・警察局)もあった。こちらは台湾割譲に反対して1895年に建国された台湾民主国がその拠点としたところ。この台湾民主国はわずか4ヶ月ばかりで崩壊したが、台湾人自身が初めて立ち上がり、建国を試みたもので、常に外来者に支配されてきた歴史をもつ台湾では、その歴史的意義が非常に大きい。

 公会堂前の広場を挟んで立つ孫文の銅像にも注目してみよう。これは日本時代に民政長官を務めた祝辰巳の銅像があったところ。ここも終戦とともに孫文の銅像に変わったが、台座は戦前のものがそのまま使用されている。

 現在、ここは台北市より史跡の指定を受け、永久に保存されることが決定している。また、イベントホールとしては現役なので、入館のチャンスは意外にも多いかもしれない。その時にはぜひ、ここを舞台に繰り広げられてきた台湾の歴史をひも解いてみたいものである。

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タイヤルの里に残る弾薬庫(宜蘭県・大同郷)

 蘭陽平野は台湾島の東北部に開けた沖積性の平原である。米、果物、茶と、多様な農作物がここで栽培され、「蘭陽」の名は指折りの農業地帯として広く知れ渡るようになった。

 今回訪れた宜蘭県大同郷は蘭陽平野のほぼ中央に位置している。ここの名産は山の斜面を用いて栽培される茶葉。最近、台湾では茶葉を用いた料理が一種の流行を見ているが、ここもその例外ではない。私もさっぱりとした味付けが魅力的な茶葉料理で歓待を受けた。

 大同郷楽水村東壘。ここに日本時代の弾薬庫が残っていることを楽水村の村長さんより伺った。その弾薬庫は現在もなお、一般家庭の倉庫として使用されているという。全台湾でもまだ3人しかいない女性郷長さんが、ご好意で案内してくれるという。そのお言葉に甘えて、早速そこを訪ねてみることにした。

 弾薬庫は民家の間の細い路地を入った奥にあった。付近の住民も、日本時代を知っている世代以外になると、ここに何があったのかを知る人はいないようで、草生した路地裏に入り込んでカメラを構える我々は自ずと村人の注目の的となっていた。

 弾薬庫といっても決して大きなものではない。ちょうど日本の田舎で見かける納戸のようなもので、注意していなければ、きっと気が付かないだろう。それでも、鉄製のしっかりした扉が備え付けられている。壁は粘土を素材として使用しているため、雨露に濡れて、簡単に崩れてしまいそうだ。鉄扉も錆ついており、剥げ落ちている。倉庫としての利用価値はすでにないように思えた。

 この弾薬庫については、その由来などを記した記録が一切残っていない。戦前・戦後を通して、人々の注視を受けることなく、朽ち果てていくのを待っているのである。建造された年代についてだけは日本の敗戦が近づいていた昭和18年頃に建てられたものと推定されるが、これも単なる推測の域を出ない。ここに住む人々に語り継がれていることだけが、この遺構についての情報なのである。

 研究者や学者の注目は決して集めないであろう「歴史の証人」。彼は今日も静かにこの町の歴史を見守っている。

    

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墓地の中に残った招魂碑(台北県・瑞芳鎮)

            

 映画「悲情城市」の舞台。そして、最近は、行楽地としてもその名が知られるようになった九分。週末にもなると、家族連れやカップルなどが大挙押し寄せる。その中に日本人観光客の姿を見かけることも決して珍しくはない。

 訪れる観光客が増えれば、自ずと、町は観光地然としていくもの。それは、ある意味で、魅力的な土地に共通して襲いかかる宿命とも言えよう。ここもその例に漏れることはなかった。戦前の古い家並みこそ確認できるものの、それらの大半はおみやげ屋や民宿を名乗ったホテルになり、風情を感じることは難しくなってしまった。ここでは、そんな町の片隅に残る日本時代の遺構を1つ紹介しよう。 

 戦前、日本の支配下にあった台湾では、競い合うかのように各地で招魂碑という碑が建てられた。これは殉死した愛国の士を祠り、その霊が土地の守護神となることを祈願して建てられたもの。現在の日本では、目にする機会はほとんど無いと言ってもいい。それが、この町のはずれに一基だけ、残っている。

 招魂碑は観光客で賑わう基山街の上方にあった。観光ルートから外れていることもあって、観光客が訪れることは皆無に近い。それ以前に、地元の住民でさえも、この碑の存在を知る人は少ない。

 大きな敷地を誇る瑞芳第十九公墓。いわゆる公共墓地である。ここには、なだらかな山肌に沿って、無数の墓石が建ち並んでいるが、その中ほどに、招魂碑は立っていた。碑の文字も削られることなく、当時の姿を完全に留めている。

 1934年(昭和9年)、招魂碑はこの一帯の鉱山を経営していた台陽鉱業株式会社社長の名で建立された。採掘作業には常に大きな危険が伴なう。古老の証言によれば、実際に事故は頻発していたという。この碑はその殉職者の霊を、愛国の士の名目で弔うために建てられた。毎年8月にはこの碑を前に、慰霊祭が挙行されていたという記録も残っている。

 慰霊のみならず、日本人精神を台湾人に植え付けることをも目的に含んでいた招魂碑。その存在意義を考えれば、国家体制が変わって半世紀が過ぎた現在、この碑が完全なかたちで残っているのは奇跡に等しい。一体、なぜ、これだけが破壊を免れ、現存しているのか。それは全くをもって不明である。

 時代は流れたが、碑は今も昔も変わることなく海原へ向かって寂しく立つ。夕陽がわずかにその姿を照らしていた。

     

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「オンシン(温泉)」という地名を訪ねる

 台東から太平洋に沿って南下していくと金崙という小さな町に出る。ここから10キロほど入ったところに小さな温泉がある。これは、日本人の警官によって開かれたという秘湯で、台湾人でも知る人は少ないという。私はこの温泉を訪ねてみた。

 金崙はパイワン族の人々が多く住んでいる集落だ。彼らはこの町を「カナロン」と呼んでいる。ペキン語での発音は「ジンルン」となるが、ここでは、「カナロン」と表記する。

 温泉までの細い道路は背丈ほどのススキの間を縫うように進んでいる。若干の心細さは否めないが、日光に照らされた樹々は何かを語りかけてくるようなやさしさに満ちており、ちょっとした散策が楽しめそうだ。

 前方の丘の上に教会が見えてきたら、温泉までは遠くない。この辺りの地名は「オンシン」。これが日本語の「オンセン」から来ているのは言うまでもないだろう。地図には載らない地名ではあるが、人々が日常的に使う「生きた地名」だ。

 金崙温泉の宿を管理するのはパイワン族ではなく、ブヌン族のおばさんだった。流暢な日本語に驚いていると、今でもブヌン語を解さないパイワン族の人々との会話の時には共通語として日本語が用いられているのだと言って、恥ずかしそうに笑った。

 この温泉はその昔、パイワン族の人々が日常の入浴池としていたところ。もともとは河原に穴を掘って、入浴していたが、日本時代になって、各設備が整備された。温泉は大きなプールのようになっており、清潔に保たれている。湯は透明だが、浸かってみると、ほのかに硫黄の香りが漂ってくる。耳に入ってくるのは、小鳥のさえずりと川のせせらぎばかりだ。

 ここにも現在、リゾート村の建設が計画されている。観光客が増え、有名になっていくのと同時に、この温泉の野趣は消えていくであろう。川のせせらぎの代わりに、自動車とハイカーたちの笑い声が谷間に響く日も遠くはなさそうだ。

   

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山に残る神社を訪ねる−シパジー社の鳥居(新竹県)

 サイシャット族が住む山合いの村を訪ねた。新竹から竹東へ出て、さらにローカルバスを乗り継いで30分あまり。山合いをうねるように進む道路の両側を民家が埋め始めたら、五峰郷に到着だ。霧に包まれることの多い、山深い小さな集落である。

 この一帯はサイシャット族の人々が住んでいる地区として知られている。五峰郷はその中心の1つ。サイシャット族は台湾原住民の中で、もっとも人口の少ない民族で、総人口はわずか4000あまり。その大半がここと苗栗県の南庄郷に居を構えている。しかし、ここ数年、五峰郷では、タイヤル系の住民が増えており、両者の比率はすでに逆転しているという。

 集落の中心となっているのは、警察署と郷公所(役場)。それぞれ、建物は新しくなっているが、その位置は日本統治時代と何ら変わっていない。この2つの庁舎を中心に、周辺には衛生署や郵便局、学校などが集まっている。これは戦前、日本人によって作られた町によく見られる位置関係である。

 戦前、ここにも小さな神社が建立されたという。私はその遺構を訪ねることにした。当時、この村はシパジー社と呼ばれており、神社(厳密には社格のない「祠」というもの)もシパジー祠と呼ばれていた。ここに参拝することを強要していた日本人は終戦と共にこの地を去り、本殿は撤去された。現在、その敷地には中学校が建てられている。

 郷公所から歩いて5分ほどのところから、中学校に向かって、長い石段があった。これは日本時代の神社の石段で、見上げると、その途中に鳥居が残っていた。ただし、両端の耳の部分は落されており、ちょうど、「円」という漢字の格好となっていた。表面はすっかり苔むしており、その上、深い木立の中にひっそりと立っているためか、注意していなければ見落としてしまいそうなまでになっている。

 鳥居の傍らに円形の平らなスペースがあった。何人かの人にたずねてみたが、神社がなくなって半世紀以上が過ぎた今、当時の様子を知る人は多くはない。私は郷公所に戻り、当時の資料をみせてもらうことにした。

 これは相撲の土俵だった。当時、ここに駐在した日本人警察官が子供たちに相撲を教えたのだろう。現在は、すべて、玉石が敷き詰められてしまい、土俵のようには見えないが、その直径から判断するに、土俵そのものである。

 この村にも戦争に参加し、再び、故郷に戻ることのなかった若者が数多くいる。その中にはここで幼少時代に相撲をとっていた者も少なくないはずだ。そして、その上に、無事、戦地から帰ってきた人も齢70を過ぎているという現実がある。現在、ここが相撲場であったことを知る人は、10人もいないとみていいだろう。

 郷公所から、再び、鳥居と土俵跡を見に戻ってみた。しかし、そこは、突然、立ち込めてきた深い霧に覆われていた。

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信仰の対象となった記念碑(花蓮県)

 戦前、日本人によって建てられた石碑が、信仰の対象となって守られている。そんな話しを耳にして、台湾東部・花蓮県の吉安郷へ向かった。

 花蓮県吉安郷初音。ここは能高越貫道路の出発地だった集落で、現在は「干城」とその名を変えている。駅付近には雑貨屋だったと思われる木造家屋が数軒残っており、往年の繁栄をわずかに偲ばせていた。

  能高越は戦前、数本あった山越えの道の中でも、最も険しいといわれていたルートである。花蓮(当時・花蓮港)と霧社を結ぶ約九〇キロ。もともと、警備道路(後に理蕃道路と改称)として開かれたもので、日本の支配を甘受しない台湾の原住民族力を制圧することを目的に建設されたものだ。そして、その後、開発が極度に遅れていた東部台湾への物資輸送の重要なルートとなっていった。

  本格的な山越えが始まろうとする地点に西寧寺という寺院が建っている。記念碑はこの付近にあったという。住職に声をかけてみると、石碑は道路を挟んだ向かいにある「廟」の中にあるとの答えを得た。日本人が建てた石碑と台湾の廟との間には関連性が見出せないので、若干の不自然さは否めなかったのだが、とりあえず、足を運んでみることにする。

  道路を挟んだ向かいに、小さなプレハブ造りの廟らしきものがあった。あまりにも小さく、質素なので、教えられなければ気がつかない程度のものだったが、その中央に鎮座しているのは紛れもなく、石製の碑だった。つまり、日本時代の石碑が信仰の対象となって、廟が建てられているのである。

  石碑には「殉職者之碑」と書かれており、その背後に重なるように、工事に携わった人々の名前を記した開道の記念碑が立っていた。いずれも自然石を用いた大きなものである。手前の碑には「殉職公」と書かれた神紙が貼ってあり、台湾風の廟の体裁が整えられているが、この廟の主神は確かに日本人が建てた殉職者碑であることがわかる。

  この2基の石碑は、そこに刻まれた文字の示す通り、道路建設に携わった人々の霊を慰めるもの。これが戦後になって、通行する人々を加護してくれると伝えられるようになり、信仰の対象となっていったのだという。私がこの碑を撮影している間にも、数台の車が止まり、運転手がこの碑に向かって手を合わせていった。

  日本人が建てた記念碑が、日本との関わりを離れ、地元住民の信仰の対象へと変わった。しかし、そこには、日本支配の擁護論や懐旧の念などというものは存在していない。純粋にご利益を求めた庶民の信仰がこの石碑を守っているのである。 

 もはやこの石碑は土地と一体化し、庶民の心に息づいていると言っても過言ではあるまい。石碑が持つ本来の意義とは異なった形ではあるが、政府によって敵性遺産の指定を受けた碑が、地元住民自身の判断によって守られているという事実。これは常に外来政権によって価値観を規定されてきた台湾においては大きく注目を受けるものであろう。 

 風雪に耐え、時代の変化に耐え、そして、体制の改変にさらされる中で強く生き延びてきた石碑。「激動の台湾近代史の中で、撤去されることなく生き延びていることだけでも、すでに信仰の対象となる価値があるよ」と笑った青年の言葉が印象的だった。

 

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生活風景に染まった派出所―東埔温泉(南投県)

 東埔は中部南投県にある温泉郷だ。ここは日本時代に新高山と呼ばれていた玉山登山口で、八通関越えの起点でもあった町。そのためか、戦前・戦後を通してトンボ 温泉の名は広く知られてきた。

 ここへのアクセスは水里から。戦前、ここまでは、手押し台車(トロッコ)に揺られて7時間を要したというが、現在は、同じ道のりを路線バスが一時間ほどで結んで いる。沿線は渓谷美が素晴らしく、退屈とは無縁な起伏に富んだ車窓が延々と続く。ここはブヌン族の人々が多く住む集落だ。彼らの言い伝えによれば、ハタランという集落のオトコが、水を求めてエラウサン渓の河原へ降りていくと、岩の間から熱湯 が噴出していた。これに驚いて、その様子を長老に告げた。長老はしばし黙考して、「冷たいはずの水が、自然に煮沸するのは神の手の寄るものに違いない。これは我らが住むべき土地の啓示だ」と一言。そして人々はここに移住してきたという。これが 東埔(トンボ)集落の始まりである。

 日本統治時代に入って、ここは、温泉郷としての繁栄をみた。公共の浴場が警察の手によって建てられ、その傍らには小さな宿泊所が設けられた。この簡易宿泊所は今もなお、東埔警光山荘という名前で営業を続けているが、建物はすでに改築されてお り、往年の面影はなくなっている。  

 そして、ここは、背後に控える中央山地を越えるゲートとして広く知られてきた。山越えの道は、すでに舗装道路が別ルートで敷設されており、旧道は廃棄されてい る。東埔集落のはずれに、小さな吊橋が草木に埋れながら残っている。朝霧(あさぎ り)橋という優雅な名前のこの橋は、東埔を旅立って、最初に渡る吊橋だったものである。橋上からは、朝霧に霞む美しい滝を遠望できたという。

 町並みを見下ろす高台に、小さな木造家屋が残っていた。ここは日本時代の派出所だった建物。戦後もしばらくの間は派出所として使用されていたというが、数年前に、新しい庁舎が完成し、その役目を終えた。現在は、この地に駐在する警察官のた めの住宅となっている。  

 表面を白いペンキで塗られた平屋の建物は、背後に控える山並みとのコントラスト が印象的だ。耐久性のよいヒノキ材とはいえ、建築後、七〇年以上が過ぎていれば、腐食だけは免れない。日本人の眼には若干、奇妙さを覚えてしまう純白の木造家屋だ が、「時間」というものは、確実に、素材を虫食んでいくものなのである。

 私がここを訪れたのはちょうど黄昏時で、ほのかに夕陽が山並みを染めていた。その姿をカメラに収めていると、音もないままに、玄関先の小さな裸電球に灯かりがと もった。そして、どこからともなく炊事をする音が聞こえ、膳の香りが漂ってきた。この町を眺めてきた派出所は、すでに、人の棲家と成り変わって、生活の香りの中に たたずんでいた。 (朝日新聞アジア版8月分原稿を部分修整)

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武徳殿を訪ねる(彰化市)

 彰化市は台中の南。豊かな穀倉地帯のちょうど真ん中にある商業都市だ。大陸に近い土地柄もあって、明の時代から大陸との交易で栄えていたという。現在も台中に次いで中部第2の都市として大きな発展をみている。

 彰化駅から市街地の中を10分ほど進むと、八卦山に着く。ここには大仏があり、彰化  のシンボルとなっている。標高はわずか96メートルほど。山というよりは小高い丘といった方が適切かもしれない。領台当初は日本の支配に抵抗する人々との激戦地だったこの山も、武力で鎮圧された後には、神社が建てられ、山全体が公園として整備が進め  られた。神社は戦後、撤去の憂き目に遭っているが、山腹の長い石段は今もそのまま残っており、市民に利用されている。本殿跡には中国式の東屋が建てられている。武徳殿はこの八卦山の入口にあった。現在は忠烈祠となり、中華民国のために殉職した  兵士たちの英霊を祠っている。しかし、建物は日本時代のままで、純和風の様式を踏襲している。内部には畳敷きのスペースもある。

 武徳殿とは言わば武道教練場である。日本は戦前、国策武道として柔道と剣道の普及を推進したが、これは植民地だった台湾でも同様だった。各地で武徳殿が建てられ、日本人の警察官と教員が中心になって柔剣道が教えられた。先に述べた畳敷きのスペースも柔道をするためのものだ。

 現在、武徳殿の周辺は住宅街となっている。その中で、純和風の様式を踏襲するこの建物は非常に目立つ存在だ。この一区画だけがタイムスリップしているようにも見える。

 軒下で夕涼みを楽しんでいる老人が何人かいた。彼らによれば、見慣れている地元の人はともかく、外来の人はこの建物は一体何なのかとよく尋ねてくるそうだ。確かに、何の知識もない人の目には、なぜここに日本風の建物があり、それが一体何のために建てられたのかを想像するのは難しい。

 今、全台湾規模で盛り上がりつつある郷土史探索ブーム。これもあって、ここを歴史遺産として保存しようという声も出てきてきた。ここが昔、何のために建てられたものだったかを知る人は、増えつつあるという。そして、最近、台湾では中学高校生を中心に柔剣道人口は増えている。

 いつの日か、またここが武道の殿堂となる日が来るのかもしれない。

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もっとも美しいと言われた駅舎―新竹駅(新竹市)

風の町として知られた新竹

 台北から列車に揺られて一時間。稲穂の緑が眩しい豊かな穀倉地帯を抜け、工場の高い煙突と外資系企業の大きな看板が目立ってくると、新竹の到着が告げられる。ここは近年、ハイテク産業が大きく発達した産業都市で、「台湾のシリコンバレー」との称号を得るようにもなっている。また、付近一帯には大学や研究機関も多く、文教都市として側面も持ちあわせている。   

 車窓の左手には、中央山脈の山並みが遠くに見える。中でも、現在は雪山を名乗る次高山は、新高山(現・玉山)に次ぐ台湾第二の高峰として知られ、これは同時に日本第二の高峰でもあった。その標高は三八六六メートル。これを「次高山(つぎたかやま)」と命名したのは、皇太子時代の昭和天皇だった。ここから吹き降ろす冷たい強風は、当時、「次高おろし」と呼ばれ、それを生かして製造されるビーフンは、今も新竹の特産品となっている。 

 昭和九年末に編まれた統計をみると、当時の新竹の人口は五万四千あまり。その内、日本人は六千人を占めていたという。ここは地方都市の中では、比較的、日本人比率の高い町で、台湾北西部一帯を管轄していた新竹州庁もここに置かれていた。行政面、経済面ともに北部台湾における中枢として発展をみていた都市であった。

台湾でもっとも美しい駅舎

  駅前広場へ出たら、後方を振り返ってみよう。そこには風格を漂わせた大きな駅舎がそびえるように建っているはず。欧風の瀟洒なデザインが印象的な建築物だ。建物全体に精緻な装飾が施されたその姿は、まさに、街の玄関と呼ぶにふさわしい美しさである。この駅舎の完成は一九一三(大正二)年三月三一日。完成当初から、基隆駅や台中駅と並んで、台湾を代表する駅舎建築の一つに数えられていたという。そして、その評価は、今もなお、全く変わることはなく、現役としてその雄姿を誇り、町の玄関として機能している。ここは新竹にやってくる人々が、その第一歩を踏む場所なっているのだ。駅舎は中央部に塔を抱いており、駅前広場と駅構内に向かって二つの時計が据え付けられている。これは公定の標準時刻を市民に知らせるという意味をもっており、戦前のターミナルには必ずあったもの。駅前広場に面しているものはデジタル式に変わっているが、構内側は当時のままの姿を保っている。しかしながら、こちらの針は長らく止まったままで、残念ながら、時計としての機能は果していない。

 駅舎内に入ってみると、見上げるばかりの高い天井が開放感を与えている。現在、この待合室には空調の設備が整えられており、真夏でも快適さが保証されているが、そんな文明の利器を駆使しなくても、この建物の内部は、暑さとは全く無縁の空間となっている。

 この建物を設計したのはドイツ建築を日本に初めて紹介したことで知られる松ヶ崎萬長 (まつがさき つむなが)。台湾総督府鉄道部の嘱託技師であった彼は、ドイツ留学後の一九〇七(明治四〇)年に台湾へ渡ってきたと言われている。在職中には、主に駅舎関係の建築物を手がけ、基隆駅や台北の鉄道ホテルの設計に関わっていたという。 

 ちなみに、松ヶ崎萬長によって設計された建築物で現存するのは、日本国内では栃木県の旧青木家那須別邸のみで、台湾においても新竹駅舎だけとなっている。21世紀を迎えて、この地球上に残っているのが、わずかに二つのみとなっているのだ。この建物にどれほどの価値があるか、それを説明する必要はないだろう。

これからも見続ける新竹の歴史

  今もなお、強烈な存在感を示しているこの駅舎。しかしながら、完成してから九〇年に近い歳月を経てみると、さすがに老朽化だけは否めない。構内も決して十分な大きさとは言えず、今までも何度か、駅舎の改築が検討されてきたという。しかし、現在を上回るものを竣工するのが容易ではないことは、建築業者に限らず、誰の目にも明らかなこと。しかも、こういった建築物は数も少なく、歴史的な価値も高い。結局、改築計画が討論されるたびに、かえって、この建築物の評価は上がるという奇妙な結果が繰り返された。

  そういった結果もあって、現在は、その評価が実を結び、史跡として、この駅舎は永遠に保存されることが決定している。人口三〇万を超える大都市に発達した新竹。そして、この駅舎は、戦前戦後を問わず、市民の誇りとなってきた。これからも、この駅舎は町の顔として、行き交う人々の記憶の中にその姿を映していくに違いない。

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白川という村の神社は今(花蓮県・瑞穂郷)

白川(しらかわ)を名乗った村

 花蓮から台東へ向かって南下していくと、光復という町を過ぎる。ここは戦前、上大和(かみやまと)と呼ばれていた町で、鹽水港製糖株式会社によって開設された製糖工場があったところだ。現在も製糖工場は稼働中で、車窓にはサトウキビ畑が一面に広がって、旅人の目を楽しませてくれる。サトウキビ畑の奥には、ビンロウ樹が立ち並び、なんとも南国らしい情緒があふれている。列車はゆっくりと、そんなのどかな風景の中を進んでいく。

 今回の目的地である富源はサトウキビ畑がとぎれ、水田に変わったあたりに位置している町。ここは日本統治時代に「白川(しらかわ)」を名乗っていた土地で、当時から水田耕作で知られていた。住民の大半はアミ族の人々で、それに漢人が加わる。

 もともと、この土地は「抜子(ポァツァ)」と呼ばれていたが、これは、もともと、アミ族の言葉で「グワバ」を意味しており、清朝時代にこの土地へやってきた漢人が、その発音に従い、河洛話で漢字をあてたものだという。その後、日本統治時代に入り、昭和十二年の地名改正で「白川(しらかわ)」と改められた。そして、戦後は「富源」という地名に改められ、現在、「抜子」の名は、町の西側にそびえる抜子山(標高一七五五m)に残るだけとなっている。

 さて、日本人が付けた「白川」という地名の由来も興味深い。この集落の近くにはマシロ渓(現・富源渓)という川が流れているが、この「マシロ」の発音が日本語の「真っ白(まっしろ)」に似ている。つまり、「真っ白な川」ということで「白川」となったのである。この地名はわずか一〇年足らずで終戦を迎えたが、今でも老人たちは、この町を日本語で「しらかわ」と呼ぶことが少なくないという。

神社の遺蹟を訪ねて

 列車を降りて、集落を抜けること二〇分あまり。そこには、日本人が建てた神社の遺蹟が残っている。派出所と学校の間から細く伸びる道を進むと、両側は眩しいばかりに稲穂が輝いている。この道は、以前、神社へ向かう参道だったものである。

 神社は集落を遠くに見下ろせる山腹にあったという。この神社は社格をもたない無格社である。これは当時、台湾東部ではよく見られたもので、本殿のみをもち、拝殿などは設けられていないことのほうが多い。「地域住民の遥拝の便をはかる」ことを目的に建てられた神社であるが、それが、植民地における「強要された参拝」であったことは言うまでもあるまい。

 この神社は一九三三(昭和八)年二月に建立されたもので、創建時の名称は抜子社。ただし、地元ではただ単に「ジンジャ」とだけ呼ばれていたようだ。私は今までに何度かここを訪れているが、精確な呼称を知る古老には出会ったことがない。神社はその土地にただ一つの存在であったから、呼称はそれほど重要ではなかったようだ。

 神社の跡地に入ってみると、すでに撤去されて久しいためか、神社の痕跡は残っていなかった。しかし、本殿へ続く石段といくつかの燈籠は残っており、よく探してみると、鳥居の支柱口も確認できた。燈籠は完全に残っているものも一基あり、そこには奉献者の氏名まで、はっきり読むことができた。

 半壊した階段はなんとも痛ましいが、そこを踏みしめながら本殿跡まで行ってみると、そこは中国式の墓地となっていた。しかし、深く雑草に覆われており、手入れはされていない様子。周囲は草いきれに包まれており、先ほど雑貨屋で居合わせたアミ族の老人が「このあたりはヘビが多い」という言葉をつぶやいていたのを思い出し、退散することにする。

派出所に居場所を得た狛犬

 神社の調査を終え、以前は参道であった道路を進んで派出所まで戻った。日本統治時代に設けられたというこの派出所は数年前に建て替えられたらしく、どこでも見かける真新しい建物だった。戦前、地方に設けられた派出所は警察官用の宿舎を併設するのが普通だったので、どこも敷地が広かったが、ここもずいぶんと広い敷地を誇っている。

 派出所前の小さな植え込みを見やると、花に埋れるようにして小さな狛犬が置かれていた。ただし、ここにあるのは一体だけで、その相棒の所在はわからない。戦後、神社が撤去された際に、誰かの手によってここへ持ち込まれたのであろう。その後、派出所は改築されたが、この狛犬は破壊されることもなく、安住の地を花壇の植え込みに得ている。

 植え込みには、南国らしい小さな花が無数に咲き乱れていた。残念ながら名前は分からないものばかりだったが、水を与えられたのは、つい先ほどのことのようで、どれも瑞々しい輝きを放っていた。孤独な狛犬もまた、頭から水を浴びて愛くるしさを増していた。

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  山郷に残る日本旅館−関仔嶺温泉(台南県・白河鎮)

軍隊によって発見された温泉

 戦前、この温泉は「美人湯」と呼ばれ、広く知られていた。谷間にひっそりとたたずむ静かな温泉郷で、嘉義の町から南へ向かって二八キロ。付近は豊かな自然に包まれており、文字どおりの「山紫水明」の境地を満喫できる。

 この温泉の歴史は一八九八年(明治三一年)にまで溯る。これは、下関条約で台湾が日本の支配下に入ってから、わずか三年後のこと。当時はまだ、日本の支配に対する抵抗が強く、日本軍はこれを制圧するための小部隊を駐屯させていた。この温泉はその部隊が露営をした際に、全く偶然に発見されたという経緯をもっている。

 その後、治安が安定してくると、温泉好きの日本人はこの温泉の泉質を研究するようになった。そして、ここの湯がリウマチ治療に効果があると判明すると、訪れる人も増えて、次第に宿や交通機関が整備されるようになった。そうなれば、温泉街として発展するまでに時間はかからない。縦貫鉄道の後壁寮(現・後壁)駅からは手押し台車の軌道も敷設されて、温泉はおおいに賑わうこととなった。

 しかし、その繁栄は長く続かなかった。戦争が終わり、台湾が日本の支配から解かれたことで、温泉郷としての命脈は尽きてしまった。日本人は温泉好きで知られていたが、その日本人が台湾を去ったことで、温泉そのものが注目されなくなってしまったのである。そして、島内各地の温泉がそうであったのと同様に、ここを訪れる人もすっかり減って、さびれていった。現在は数軒の旅館がかろうじて温泉郷のたたずまいを残しているが、そこにかつての賑わいを感じとることはほとんどできない。栄華はすべて過去のものとなっていったのである。

名物「ドロ湯」を和風旅館で味わう

 渓谷沿いに開けた温泉街は非常に小さなもので、歓楽的な要素は全く見られない。それでも、細い路地の両側に数軒の食堂と旅館が並んでおり、ささやかながら温泉街の雰囲気を残している。店先では老婆がとれたての野菜の泥を落とし、天空には自由に舞う小鳥のさえずりが響き渡っている。私は日本統治時代に書かれた旅日記の「下駄の音が谷間に響いていた」という記述が印象に残っていたが、当地を訪れてみると、そんな情緒が迫ってくるようなたたずまいである。

 関仔嶺温泉には数軒の温泉宿があるが、中には戦前からの木造建築を現在も使用している旅館があって興味が尽きない。いずれも畳部屋を備えた本格的な日本旅館である。独特の風格を漂わせてはいるが、建物としてはかなり痛んでいるので、宿泊には向かないかもしれない。躊躇する私の心を知ってか、入浴だけの利用もできるという声が建物の中から聞こえてきた。私は東皇旅社という旅館の暖簾をくぐってみることにした。

 東皇旅社は関仔嶺温泉の小さな温泉街から坂道を上っていったところにある木造二階建ての旅館である。ヒノキを用いて建てられた純和風建築で、主人によれば、築年数は不明とのことだったが、戦前にはすでに旅館業を始めていたのは確かだから、少なく見積もっても六十年以上の歳月が過ぎ去っているという計算になる。

 大きな玄関で靴を脱ぎ、まずは館内を散策するのと同時に撮影をさせてもらうことにする。廊下の床をきしませながら、薄暗い屋内を進んでいく。外は蒸し暑い南国の陽気だが、網戸から吹き入るそよ風がそんな暑さを忘れさせてくれる。客間はすべて畳敷きの和室で、中には、床の間のある部屋もある。館内は掃除が行き届いており、清潔が保たれているのが嬉しい。

 浴場に案内してもらった。お風呂に関しては、やや大きめの個人風呂がいくつか並んでいるだけで、大浴場というものは存在しない。台湾には共同浴場の発想が定着しなかったため、残念ながら大風呂で温泉風情を味わうことはできないのだ。

 ただ、お湯のほうは非常に独特なもので、注目に値する。なんと、灰濁しているのだ。一見すると泥水のように思えてしまうが、これは実際に泥の微粒子を含んでいるのだという。塩類炭酸泉で皮膚にとてもやさしい。また、硫黄とアルカリを適度に含んでいるので殺菌効果あり、入浴後は肌がほどよく引き締まってくる。湯上がり後に一休みして、みずからの肌をなでてみれば、ここに「美人湯」の称号が贈られた理由が理解できるはずだ。

 日本統治時代は多くの湯治客で賑わいを見せていた関仔嶺温泉。時代が変わり、社会も変わったが、この旅館は玄関をくぐるすべての人を受け入れてきた。六〇年間にも渡ってそれを続けてきた建物。これを「歴史の証人」と呼んだとしても、だれも異論は唱えまい。

 ただし、どの時代、どの土地でも、歴史の証人というものは決して多くを語らないものである。この旅館もまた、沈黙を保ったままで山あいにたたずんでいた。

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昔ながらの温泉宿を訪ねるー紅葉温泉(花蓮県・瑞穂郷)

「紅葉」という名の集落

紅葉温泉は花蓮県南部に位置する小さな温泉郷で、瑞穂駅の後方に広がるタバコ畑の中を進んで、山をわずかに入ったところにある。大自然に抱かれた静かな秘湯である。

 私がここを訪れたのは一〇月も半ばを過ぎた頃。「紅葉」の名前に若干の期待を胸に秘めつつ足を運んだ。残念ながら、紅葉とは地名だけで、木の葉の色は南国らしい深い緑のままだったが、なだらかに連なる山容の美しさには思わず言葉を奪われる。四方を見回すだけで、大自然の恵みを満喫できる豊かな土地であった。

 この温泉の手前には「紅葉村」という優雅な名前の集落がある。道路はこの集落を突ききるようにのびており、家並みのはずれで紅葉渓を渡る。この集落を見おろす高台には瑞穂温泉という出湯もある。

 「紅葉」は日本統治時代を知る古老によれば、「こうよう」と読むのが正しいという。付近一帯に広がる平原地帯に住んでいるのはアミ族の人々だが、この地名は彼らの言語に由来しているのだ。「コーヨー」とは彼らの言葉で、「山猫」を意味している。「もみじ」とは無縁だったのである。

 ただし、現在、この集落にアミ族の住民は少なく、タロコ地方からやってきたセデック族の人々が大半を占めている。もともと、この集落には日本の支配を甘受しなかった人々がタロコの山から下ろされてここに定住させられたのである。

 行政上では「紅葉村」という地名が与えられているが、現地では「エフナン」と呼ばれている。太魯閣峡谷の谷間にたたずむロサオという名の集落から22戸111名がここへやってきたという記録が残っている。彼らは今もなお、自らの集落をエフナンと呼ぶことが多いという。

 終戦によって日本人は台湾を離れたが、タロコ地方の移住定住政策は、国民党政権にも受け継がれたため、この集落でタロコ地方からの移住民が占める割合はより高くなったという。

紅葉温泉旅社を訪ねる

 紅葉渓の清流を長い橋梁で渡る。そして、さらに山道を進んでいくと、木造平屋の温泉宿が見えてくる。これが紅葉温泉旅社だ。人里寂しい一軒宿の秘湯で、周囲には旅館を経営する家族が住む住居以外、民家の一軒も見あたらない。

 紅葉温泉旅社と大きな看板を掲げられた建物は日本時代のもので、すでに築後六〇年の歳月が過ぎているという。経営者は客家人の家族だ。戦前、日本人が多く住んでいた地域には、戦後、新竹・苗栗方面から客家人が多く移入してきているが、ここもその例に漏れない。私はここを何度か訪問しているが、そのたびに温かい笑顔で迎えてくれる。そして、いつのまにか、私にとっては旅先の我が家のような存在になってしまった。

 館内は畳敷きの部屋が廊下に沿って一列に並ぶというシンプルな造り。木造平屋で、トイレや洗面所は共同だ。まるで、林間学校の宿のような雰囲気が漂っている。ひんやりと冷たい廊下を歩いていると、山の涼しいそよ風が頬をなでていく。特に朝方の空気は格別だ。この旅社にはエアコン完備の新館も完成しているが、こちらには快適さはあっても情緒はない。やはり、この「老家屋」の方に投宿してみたい。

 この建物は部分的な改装は経ているものの、今もなお、往年の雰囲気を感じさせる。戦前の木造建築が現役であることは台湾でも珍しくなり、その温もりを味わいに訪れる人も少なくはないのだという。確かにこの温泉宿が醸し出す雰囲気は独特のものがあり、ここを訪れる旅人、中でも日本人はその姿を前にすると、必ずや感嘆の声をあげるという。

湯量豊富な温泉を楽しむ

 温泉はもちろん天然のもので、湯量は豊富だ。こういった場所にあるため、もともと訪問客が多いとは言えない。そのため、大浴場は日本時代から存在せず、やや大きめの浴池があるだけだったという。現在は、個室風呂がいくつか並んでいる。日本人の感覚で言えば、やや風情には欠けるが、それぞれの湯船は大きな造りで、ゆっくりとくつろげるのは嬉しいものだ。

 それでも、ここ数年来、台湾は温泉ブームとなっており、その影響もあってか、小ぶりながらも、男女別の大浴場が完成している。しかし、「裸のつきあい」という発想は台湾ではあまり理解されないらしく、台湾人の行楽客はやはり個室風呂を好む傾向があるという。

 熱い湯を浴びて、外に出てみると、しっとりとしてさわやかな山の空気が湯上がりの体を優しく包みこむ。昔ながらの湯けむり情緒は今、土地の人々だけでなく、花蓮や台北に住む若者たちにも人気があり、週末には予約が必要なほどにもなっているという。日本人の手によって開かれた温泉文化はここでは今もしっかりと息づいているようだ。

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残された国旗掲揚台―旧知本国民学校(台東県・台東市)

八社族と呼ばれた人々

 台東の町から一〇キロほど。通称・知本街道と呼ばれる道路を南西の方向に進んでいくと知本の集落に入る。台湾東部最大の温泉郷として知られる知本温泉はここからさらに2キロほど山間へ入ったところにある。

 ここの住民の多くは一般的にはプユマ族と呼ばれる人々で、漢字表記は「卑南族」となる。日本統治時代は八社(はっしゃ)族と呼ばれていたが、この呼称は人々が住んでいる集落(社)の数にちなんでいる。当時、彼らは台東市の西側一帯に広がる平原に八つの集落に分かれて生活していた。その中で、もっとも大きな勢力を誇った集落が現在の南王集落であり、ここの現地名が「プユマ」である。これがもとになって、近隣の集落に住む人々の総称として「プユマ族」と呼ばれるようになり、これが漢字では「卑南」と表されたのである。

 しかしながら、実際はそれぞれの集落は伝統を守りながら存在しており、独自の文化を堅持している。この知本集落でも、自らを「プユマ」ということはなく、自らの集団名である「カティブ」もしくは「カテボル」を名乗ることが多い。つまり、私たちが極めて一般的に用いている「プユマ族」や中国語の「卑南族」といった呼称は外部からの分類に過ぎず、現地での慣例をふまえていない。こういった学者たちが立場と都合で付けてしまった分類と呼称は、今、改めて見直されるべきであろう。

 さて、このようにして、文化的な近似性だけで分類されてしまった「プユマ族」の総人口は八〇〇〇あまりと多くはない。しかしながら、勇敢さと規律正しい生活様式をもつ彼らは、いつの時代も、みずからの文化をかたくなに守り続けてきた。日本統治時代、そして、戦後の国民党政権下においても、民族の尊厳を失わなかった誇り高き人々であるといえよう。

 この地区に学校が開設されたのは明治三四年七月一〇日。台東国語伝習所知本分教場として開かれた時にまで溯る。知本公学校を名乗るようになったのは明治三八年四月からで、後に知本国民学校と改称される。台東地方では、比較的、早期に設けられた学校であった。

 この学校は戦後になって児童数が増加したため、数百メートル離れた現在の場所に移転している。そして、旧校舎の敷地はしばらく空地となっていたが、その後、人々が先祖伝来の行事を催すための集会所として利用されるようになったという。

 この集会所は「バラクワン」と呼ばれ、彼らにとって、非常に神聖な場所である。プユマのしきたりでは、一定の年齢に達した少年たちはすべて、ここに集められる。そして、寝泊まりをともにしながら、長老たちによって部族の作法や伝統を厳しく教えこまれるのだという。結果的に、その厳しさがプユマの伝統を守ったと言っても過言ではなかろう。なお、少年たちは、この敷地内に設置された小屋で生活するが、ここは女人禁制であり、これについてはいかなる例外も認められない。

バラクワンに残る国旗掲揚台

 私がここを訪れたのは七月十五日。この日は収穫を祖先に感謝するために開かれる年に一度の祭りの日だった。早朝とは言っても、南国の夏は蒸し暑く、じっとしていても全身から汗がにじんでくる。

 長老との会話の中で、私は学校の運動場であったというこの広場の片隅に日本時代の国旗掲揚台が残っていることを教えられた。長老が指差す方向を凝視すると、それらしき石塊が見えている。その風体は簡素ながらも、確かに国旗掲揚台である。

 この国旗掲揚台がいつ頃に建てられたのかは不明だ。周囲に居合わせた長老たちの言葉によれば、昭和十三年頃ではなかったかというが、これも推測の域を出るものではない。確かなのは、戦況の悪化による物資の不足のため、完全なセメントで造ることはできず、大きな石を混ぜながら造り上げたということだけであった。

 近づいてみると、掲揚台は高さ一メートルにも満たないほどの小さなものであった。しかし、しっかりと階段が備え付けられており、国旗柱を立てていたのであろう穴も確認できる。長老によれば、この掲揚台の場所は以前と変わっていないという。そして、当時の子供たちは、朝礼の際に、必ずここへ向かい、国旗に対して最敬礼をしたと言葉を続けた。それから長老は自らの幼少時代を思い出したのか、懐かしそうに遠くを見つめた。

土地の歴史を見続ける「古老」

 時代は変わった。今となっては、日の丸を掲げた掲揚台など、何ら意味を持ち得ない。日本人は終戦とともにこの地を去り、戦後、学校施設もこの場所を離れた。そして、ただ1つ、この掲揚台だけが管理する人もないままに放置されたのである。広場に寂しく残された掲揚台を見て、私は、はかなさというものを感じずにはいられなかった。

 思わず沈黙してしまった私を見て、一人の長老が、その心うちを知ったのか、こんなことを口にした。「これは、私たちの思い出。年老いた私たちが子供時代を思い出すきっかけになっています。だから、ここに残してもらっているのです」

 この台は、「放置」されているのではなく、「残されて」いるのだった。

 戦後の台湾には、日本と同様、「奇蹟」と評された経済復興があった。その波は、台北や高雄などの都市部だけでなく、小さな農村にも押し寄せた。この村にも、すでに都市の文化は浸透している。不要なものはいとも簡単に捨て去ってしまうのが「都市」のやり方である。

 この掲揚台とて、もはや用途を失った過去の遺物に過ぎないのだから、捨て去ることは容易なことだったに違いない。それこそ、社会の発展過程においては、そうなることの方が順当な流れと言うべきなのであろう。しかし、掲揚台は撤去されなかった。この土地で齢を重ねた老人たちの現在と、彼らの子供時代を結び付けるための「道具」としてここに残された。そして、人々の手によって守られてきたのである。

 近代化という名の変化の中で、この掲揚台はいつの日も変わることなく土地の歴史を見続けている。同時に、この掲揚台は土地の人々によって、温かく見守られているのである。そう思えば、もはや、これを「遺構」などと呼ぶことはできない。過ぎ去った事実は歴史の中の一ページに編み込まれて行くが、それらを体験し、胸中に温めている人々にとっては「過去」ではない。いつまでも、その人の中に生き続ける、色褪せることのない「真実」である。

 そんなことを考えていると、突然、力強い声が響いてきた。頭目が全住民を代表して祖先に宣誓の言葉を述べている。この瞬間から一年に一度の収穫際が始まる。私は人々にならって、傍らの国旗掲揚台とともに不動の姿勢で頭目の言葉を聞いていた。

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 山郷の診療所を訪ねるー共栄診療所(台東県・台東市)

プユマ族の住む町で

 台東県には台湾の先住民族である人々が多く住んでいる。戦前、日本人は彼らを「高砂族」と呼んだが、戦後、体制が変わると「山地人」や「山地同胞」などという呼称が用いられるようになった。そして、現在は彼ら自身の強い希望もあって、中国語ではもっとも差別感が少ないとされる「原住民」という表現を用いるのが一般的となっている。

 今回、私が訪れたのは、台東県卑南郷にある利嘉村。ここは台東市から西に位置する小さな集落だ。知本(カテボル)集落と同様、住民の大半はプユマ族の人々である。

 この集落は、もともとはプユマの言葉で「リカボン」といい、それを簡略化して「リカ」と呼ぶのが一般的だったという。しかし、外来の為政者たちは、常にみずからの言語に従って、この地名を改めてきた。戦前、日本人は「呂家(ろか)」とした。そして、戦後、台湾へやってきた国民党政権は「利嘉(リージア)」とそれを改めた。つまり、いつの時代も土地の住民の言葉は尊重されることはなく、時間は流れてきたのである。

村人の健康を守る

 さて、この集落には日本統治時代に建てられた診療所が残っているという。訪ねてみると、それは純和風の美しい木造家屋であった。建物の前には大きな相思樹が茂り、涼しい木陰を供している。

 現在、ここを管理しているのは甘共栄氏。生まれは彰化で、戦後間もない頃にこの土地へ移り住んできたのだという。終戦によって、日本人が所有していた資産は、すべて大陸から渡ってきた国民党政権によって「接収」されたが、氏はその際に政府からここを引き受け、共栄診療所として再開業した。それから半世紀以上に渡って、集落で唯一の診療所の主として信頼を集め、人々の健康を守ってきた人物である。

 突然の訪問であったのにも関わらず、氏は笑顔をもって迎えてくれた。ご好意で、家屋の内までも案内してもらう。タタミ敷きの部屋はもちろん、床の間までもがそのままの姿で残っている。築60年以上を経ているとはいうものの、ヒノキ材で造られた家屋は歳月とともに独特の味わいを漂わせる。氏によれば、診療室内の机や薬品棚なども、戦前から使われているものを用いているという。

 屋内の撮影を済ませて、再び庭先へ出てみる。建物は強い陽射しに照らされていた。夏季に限らず、わずかに差し込んだ木洩れ陽にさえ「南国」を感じてしまう台湾だが、そんな陽気の中でも、この建物は、暑さを感じさせない。「これもまた、ヒノキの家の効用かもしれないね」と、氏は笑みを浮かべながらそうつぶやいた。

人生の一部分を重ねあわせた二人

 日本統治時代にこの診療所の主だった人物は東屋敷錦之助という医師だった。しかし、彼はすでに他界して久しい。甘共栄氏によれば、この建物を譲り受けた時には、すでに還暦を迎える頃だったという。戦後、東屋敷氏がこの地を訪れる機会はやってこなかった。

 私がその人物に興味を示すと、氏は数年前に東屋敷氏の遺族がここを訪ねてきた時の様子を克明に語ってくれた。そして、その時に撮ったという写真を見せてあげようと言い残して席をたった。しばらく押し入れを開け閉めする音などを聞きながら待っていると、部屋の奥から大きなアルバムを抱えた氏が笑顔とともに現れた。アルバムは氏の人生の思い出が詰まった一冊であった。

 残念ながら、そのスナップ写真はどこかへ紛れ込んでしまったようだったが、懐かしそうにその時の様子を語る氏の表情は穏やかで、そこには当時、日本人と台湾人の間に横たわっていた支配者・被支配者の「哀しい関係」については、何も感じとることはできなかった。

 東屋敷氏と甘共栄氏がここにいたのは、終戦から引き揚げまでの半年あまり。その時間というのは、人生の長さから考えれば、ほんのわずかなものであろう。しかし、たとえわずかであっても、この二人がお互いの人生の一部分を共有したという事実は疑い入れ得ない。二人の間においては、国境や国籍などは全く意味をなしていないのである。

 私が台東地方の取材から戻って、一週間が過ぎたある日。一通の便りが拙宅に舞い込んだ。封を開けてみると、毛筆で記された丁寧な日本語の文面と、数人の日本人に囲まれながら診療所の前で楽しそうに歓談する氏のスナップ写真が入っていた。

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