
台湾に残る日本時代の遺構を歩く
(朝日新聞国際版&自由新聞に掲載した記事より一部修正済み)
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候洞は台湾の北部小さな集落。台北からは列車で約1時間ほどの距離のところにある。 ここは、日本時代に炭坑の町として開かれ、その後、大きく発展をみた。終戦後も日本時代の採掘施設がそのまま利用され、一帯は名実ともに「台湾最大の鉱山」の名を欲しいままにしていたが、約20年ほど前に閉山。その後は凋落の一途をたどった。現在は廃墟となった精練施 設がわびしく風雨にさらされている。
候洞の町は駅から基隆河をへだてた対岸にある。駅から歩いて10分ほど。川を渡りきったところに、終戦後にできた新市街で、そこからさらに5分ほどすすんだところが、旧市街である。新市街にはモルタル造りの建物が数軒並んでいるが、これらは全て、炭坑関係者の住宅なのだという。ヤマは閉山したが、この土地を離れない人も多くいるようだ。
この町のはずれに日本人が建てた神社の跡がある。炭坑で働く労働者が、日々の安全を祈るために建てられたものだという。坂道を30分ほど進んで、ここを訪ねてみることにした。
神社跡には鳥居が残っていた。神社そのものが集落から遠く、目立たぬ場所にあるためか、人通りはほとんどない。しかも敷地全体が草木に深く覆われており、注意していないと見落としてしまいそうだ。
鳥居は神社の入口と拝殿の前にあった。鳥居の柱には「奉献」の2文字がはっきりと確認できる。この神社は炭坑の採掘会社が建てたもので、坑夫たちは毎日ここにお参りをしてから職場へ向かったのだという。道路から本殿まで続いていた石段も日本時代のまま残っている。
本殿と拝殿は完全に撤去されている。本殿跡にはいくつかのベンチが無造作に並べられている。そして、拝殿のあった空間は涼亭と呼ばれる中国風の夕涼み台が建てられており、当時の様子を偲ぶことは全くできない。
本殿があったと思われるあたりに立ってみると、川をはさんで、候洞の駅がよく見える。敗戦によって、日本人がこの町を去ってから、半世紀以上が過ぎた今、この神社の存在を知る人は少ない。それでも、数年に一度、この町を去っていった坑夫たちが昔を懐かしんでやってくることがあるという。
日本人が去って、うち捨てられた神社。残された鳥居は今日も無言でこの町の様子を見続けている。
台北駅から商店街を抜けて、歩くこと15分。林立するビルとデパートに囲まれた道路を進むと、古くて大きな石造りの建物が目に入ってくる。これが旧台北公会堂だ。戦後、中華民国建国の父・孫文(孫中山)にちなみ、中山堂と名を変えて、現在に至っている。
8年間という歳月をかけて建てられたこの建物は、昭和天皇の即位を記念して、1936年に完成した。地上4階建てで、敷地総面積は1240坪。館内には3つのホールを有している。現在もなお、市内有数の規模を誇る多目的ホールである。当時は珍しかった大きな舞台やカフェテリアなども備えている。
ここでは毎日のように演劇や舞台の公演が催され、多くの人々で賑わったという。結婚式や各種表彰式なども多かった。しかし、ここで行われた最大の行事と言えば、やはり1945年10月25日の台湾地区の降伏式典であろう。この日は現在、光復節として、国定の祝日となっている。
降伏式典そのものは非常に簡素なものだったというが、半世紀に及ぶ日本の支配から解放された台湾人の喜びようは想像に難くない。この時点では、国民党と外省人支配による受難の日々が待ち受けていることは誰として知るよしもなかった。
さて、この土地はもともと、清朝の行政中枢ともいうべき布政使司衙門があったところ。公会堂の建物はこれを撤去して作られたものだ。このすぐ隣りには巡撫衙門(現・警察局)もあった。こちらは台湾割譲に反対して1895年に建国された台湾民主国がその拠点としたところ。この台湾民主国はわずか4ヶ月ばかりで崩壊したが、台湾人自身が初めて立ち上がり、建国を試みたもので、常に外来者に支配されてきた歴史をもつ台湾では、その歴史的意義が非常に大きい。
公会堂前の広場を挟んで立つ孫文の銅像にも注目してみよう。これは日本時代に民政長官を務めた祝辰巳の銅像があったところ。ここも終戦とともに孫文の銅像に変わったが、台座は戦前のものがそのまま使用されている。
現在、ここは台北市より史跡の指定を受け、永久に保存されることが決定している。また、イベントホールとしては現役なので、入館のチャンスは意外にも多いかもしれない。その時にはぜひ、ここを舞台に繰り広げられてきた台湾の歴史をひも解いてみたいものである。
蘭陽平野は台湾島の東北部に開けた沖積性の平原である。米、果物、茶と、多様な農作物がここで栽培され、「蘭陽」の名は指折りの農業地帯として広く知れ渡るようになった。
今回訪れた宜蘭県大同郷は蘭陽平野のほぼ中央に位置している。ここの名産は山の斜面を用いて栽培される茶葉。最近、台湾では茶葉を用いた料理が一種の流行を見ているが、ここもその例外ではない。私もさっぱりとした味付けが魅力的な茶葉料理で歓待を受けた。
大同郷楽水村東壘。ここに日本時代の弾薬庫が残っていることを楽水村の村長さんより伺った。その弾薬庫は現在もなお、一般家庭の倉庫として使用されているという。全台湾でもまだ3人しかいない女性郷長さんが、ご好意で案内してくれるという。そのお言葉に甘えて、早速そこを訪ねてみることにした。
弾薬庫は民家の間の細い路地を入った奥にあった。付近の住民も、日本時代を知っている世代以外になると、ここに何があったのかを知る人はいないようで、草生した路地裏に入り込んでカメラを構える我々は自ずと村人の注目の的となっていた。
弾薬庫といっても決して大きなものではない。ちょうど日本の田舎で見かける納戸のようなもので、注意していなければ、きっと気が付かないだろう。それでも、鉄製のしっかりした扉が備え付けられている。壁は粘土を素材として使用しているため、雨露に濡れて、簡単に崩れてしまいそうだ。鉄扉も錆ついており、剥げ落ちている。倉庫としての利用価値はすでにないように思えた。
この弾薬庫については、その由来などを記した記録が一切残っていない。戦前・戦後を通して、人々の注視を受けることなく、朽ち果てていくのを待っているのである。建造された年代についてだけは日本の敗戦が近づいていた昭和18年頃に建てられたものと推定されるが、これも単なる推測の域を出ない。ここに住む人々に語り継がれていることだけが、この遺構についての情報なのである。
研究者や学者の注目は決して集めないであろう「歴史の証人」。彼は今日も静かにこの町の歴史を見守っている。
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映画「悲情城市」の舞台。そして、最近は、行楽地としてもその名が知られるようになった九分。週末にもなると、家族連れやカップルなどが大挙押し寄せる。その中に日本人観光客の姿を見かけることも決して珍しくはない。
訪れる観光客が増えれば、自ずと、町は観光地然としていくもの。それは、ある意味で、魅力的な土地に共通して襲いかかる宿命とも言えよう。ここもその例に漏れることはなかった。戦前の古い家並みこそ確認できるものの、それらの大半はおみやげ屋や民宿を名乗ったホテルになり、風情を感じることは難しくなってしまった。ここでは、そんな町の片隅に残る日本時代の遺構を1つ紹介しよう。
戦前、日本の支配下にあった台湾では、競い合うかのように各地で招魂碑という碑が建てられた。これは殉死した愛国の士を祠り、その霊が土地の守護神となることを祈願して建てられたもの。現在の日本では、目にする機会はほとんど無いと言ってもいい。それが、この町のはずれに一基だけ、残っている。
招魂碑は観光客で賑わう基山街の上方にあった。観光ルートから外れていることもあって、観光客が訪れることは皆無に近い。それ以前に、地元の住民でさえも、この碑の存在を知る人は少ない。
大きな敷地を誇る瑞芳第十九公墓。いわゆる公共墓地である。ここには、なだらかな山肌に沿って、無数の墓石が建ち並んでいるが、その中ほどに、招魂碑は立っていた。碑の文字も削られることなく、当時の姿を完全に留めている。
1934年(昭和9年)、招魂碑はこの一帯の鉱山を経営していた台陽鉱業株式会社社長の名で建立された。採掘作業には常に大きな危険が伴なう。古老の証言によれば、実際に事故は頻発していたという。この碑はその殉職者の霊を、愛国の士の名目で弔うために建てられた。毎年8月にはこの碑を前に、慰霊祭が挙行されていたという記録も残っている。
慰霊のみならず、日本人精神を台湾人に植え付けることをも目的に含んでいた招魂碑。その存在意義を考えれば、国家体制が変わって半世紀が過ぎた現在、この碑が完全なかたちで残っているのは奇跡に等しい。一体、なぜ、これだけが破壊を免れ、現存しているのか。それは全くをもって不明である。
時代は流れたが、碑は今も昔も変わることなく海原へ向かって寂しく立つ。夕陽がわずかにその姿を照らしていた。
台東から太平洋に沿って南下していくと金崙という小さな町に出る。ここから10キロほど入ったところに小さな温泉がある。これは、日本人の警官によって開かれたという秘湯で、台湾人でも知る人は少ないという。私はこの温泉を訪ねてみた。
金崙はパイワン族の人々が多く住んでいる集落だ。彼らはこの町を「カナロン」と呼んでいる。ペキン語での発音は「ジンルン」となるが、ここでは、「カナロン」と表記する。
温泉までの細い道路は背丈ほどのススキの間を縫うように進んでいる。若干の心細さは否めないが、日光に照らされた樹々は何かを語りかけてくるようなやさしさに満ちており、ちょっとした散策が楽しめそうだ。
前方の丘の上に教会が見えてきたら、温泉までは遠くない。この辺りの地名は「オンシン」。これが日本語の「オンセン」から来ているのは言うまでもないだろう。地図には載らない地名ではあるが、人々が日常的に使う「生きた地名」だ。
金崙温泉の宿を管理するのはパイワン族ではなく、ブヌン族のおばさんだった。流暢な日本語に驚いていると、今でもブヌン語を解さないパイワン族の人々との会話の時には共通語として日本語が用いられているのだと言って、恥ずかしそうに笑った。
この温泉はその昔、パイワン族の人々が日常の入浴池としていたところ。もともとは河原に穴を掘って、入浴していたが、日本時代になって、各設備が整備された。温泉は大きなプールのようになっており、清潔に保たれている。湯は透明だが、浸かってみると、ほのかに硫黄の香りが漂ってくる。耳に入ってくるのは、小鳥のさえずりと川のせせらぎばかりだ。
ここにも現在、リゾート村の建設が計画されている。観光客が増え、有名になっていくのと同時に、この温泉の野趣は消えていくであろう。川のせせらぎの代わりに、自動車とハイカーたちの笑い声が谷間に響く日も遠くはなさそうだ。
サイシャット族が住む山合いの村を訪ねた。新竹から竹東へ出て、さらにローカルバスを乗り継いで30分あまり。山合いをうねるように進む道路の両側を民家が埋め始めたら、五峰郷に到着だ。霧に包まれることの多い、山深い小さな集落である。
この一帯はサイシャット族の人々が住んでいる地区として知られている。五峰郷はその中心の1つ。サイシャット族は台湾原住民の中で、もっとも人口の少ない民族で、総人口はわずか4000あまり。その大半がここと苗栗県の南庄郷に居を構えている。しかし、ここ数年、五峰郷では、タイヤル系の住民が増えており、両者の比率はすでに逆転しているという。
集落の中心となっているのは、警察署と郷公所(役場)。それぞれ、建物は新しくなっているが、その位置は日本統治時代と何ら変わっていない。この2つの庁舎を中心に、周辺には衛生署や郵便局、学校などが集まっている。これは戦前、日本人によって作られた町によく見られる位置関係である。
戦前、ここにも小さな神社が建立されたという。私はその遺構を訪ねることにした。当時、この村はシパジー社と呼ばれており、神社(厳密には社格のない「祠」というもの)もシパジー祠と呼ばれていた。ここに参拝することを強要していた日本人は終戦と共にこの地を去り、本殿は撤去された。現在、その敷地には中学校が建てられている。
郷公所から歩いて5分ほどのところから、中学校に向かって、長い石段があった。これは日本時代の神社の石段で、見上げると、その途中に鳥居が残っていた。ただし、両端の耳の部分は落されており、ちょうど、「円」という漢字の格好となっていた。表面はすっかり苔むしており、その上、深い木立の中にひっそりと立っているためか、注意していなければ見落としてしまいそうなまでになっている。
鳥居の傍らに円形の平らなスペースがあった。何人かの人にたずねてみたが、神社がなくなって半世紀以上が過ぎた今、当時の様子を知る人は多くはない。私は郷公所に戻り、当時の資料をみせてもらうことにした。
これは相撲の土俵だった。当時、ここに駐在した日本人警察官が子供たちに相撲を教えたのだろう。現在は、すべて、玉石が敷き詰められてしまい、土俵のようには見えないが、その直径から判断するに、土俵そのものである。
この村にも戦争に参加し、再び、故郷に戻ることのなかった若者が数多くいる。その中にはここで幼少時代に相撲をとっていた者も少なくないはずだ。そして、その上に、無事、戦地から帰ってきた人も齢70を過ぎているという現実がある。現在、ここが相撲場であったことを知る人は、10人もいないとみていいだろう。
郷公所から、再び、鳥居と土俵跡を見に戻ってみた。しかし、そこは、突然、立ち込めてきた深い霧に覆われていた。
戦前、日本人によって建てられた石碑が、信仰の対象となって守られている。そんな話しを耳にして、台湾東部・花蓮県の吉安郷へ向かった。
花蓮県吉安郷初音。ここは能高越貫道路の出発地だった集落で、現在は「干城」とその名を変えている。駅付近には雑貨屋だったと思われる木造家屋が数軒残っており、往年の繁栄をわずかに偲ばせていた。
能高越は戦前、数本あった山越えの道の中でも、最も険しいといわれていたルートである。花蓮(当時・花蓮港)と霧社を結ぶ約九〇キロ。もともと、警備道路(後に理蕃道路と改称)として開かれたもので、日本の支配を甘受しない台湾の原住民族力を制圧することを目的に建設されたものだ。そして、その後、開発が極度に遅れていた東部台湾への物資輸送の重要なルートとなっていった。
本格的な山越えが始まろうとする地点に西寧寺という寺院が建っている。記念碑はこの付近にあったという。住職に声をかけてみると、石碑は道路を挟んだ向かいにある「廟」の中にあるとの答えを得た。日本人が建てた石碑と台湾の廟との間には関連性が見出せないので、若干の不自然さは否めなかったのだが、とりあえず、足を運んでみることにする。
道路を挟んだ向かいに、小さなプレハブ造りの廟らしきものがあった。あまりにも小さく、質素なので、教えられなければ気がつかない程度のものだったが、その中央に鎮座しているのは紛れもなく、石製の碑だった。つまり、日本時代の石碑が信仰の対象となって、廟が建てられているのである。
石碑には「殉職者之碑」と書かれており、その背後に重なるように、工事に携わった人々の名前を記した開道の記念碑が立っていた。いずれも自然石を用いた大きなものである。手前の碑には「殉職公」と書かれた神紙が貼ってあり、台湾風の廟の体裁が整えられているが、この廟の主神は確かに日本人が建てた殉職者碑であることがわかる。
この2基の石碑は、そこに刻まれた文字の示す通り、道路建設に携わった人々の霊を慰めるもの。これが戦後になって、通行する人々を加護してくれると伝えられるようになり、信仰の対象となっていったのだという。私がこの碑を撮影している間にも、数台の車が止まり、運転手がこの碑に向かって手を合わせていった。
日本人が建てた記念碑が、日本との関わりを離れ、地元住民の信仰の対象へと変わった。しかし、そこには、日本支配の擁護論や懐旧の念などというものは存在していない。純粋にご利益を求めた庶民の信仰がこの石碑を守っているのである。
もはやこの石碑は土地と一体化し、庶民の心に息づいていると言っても過言ではあるまい。石碑が持つ本来の意義とは異なった形ではあるが、政府によって敵性遺産の指定を受けた碑が、地元住民自身の判断によって守られているという事実。これは常に外来政権によって価値観を規定されてきた台湾においては大きく注目を受けるものであろう。
風雪に耐え、時代の変化に耐え、そして、体制の改変にさらされる中で強く生き延びてきた石碑。「激動の台湾近代史の中で、撤去されることなく生き延びていることだけでも、すでに信仰の対象となる価値があるよ」と笑った青年の言葉が印象的だった。
東埔は中部南投県にある温泉郷だ。ここは日本時代に新高山と呼ばれていた玉山の登山口で、八通関越えの起点でもあった町。そのためか、戦前・戦後を通してトンボ 温泉の名は広く知られてきた。
ここへのアクセスは水里から。戦前、ここまでは、手押し台車(トロッコ)に揺られて7時間を要したというが、現在は、同じ道のりを路線バスが一時間ほどで結んで いる。沿線は渓谷美が素晴らしく、退屈とは無縁な起伏に富んだ車窓が延々と続く。ここはブヌン族の人々が多く住む集落だ。彼らの言い伝えによれば、ハタランという集落のオトコが、水を求めてエラウサン渓の河原へ降りていくと、岩の間から熱湯 が噴出していた。これに驚いて、その様子を長老に告げた。長老はしばし黙考して、「冷たいはずの水が、自然に煮沸するのは神の手の寄るものに違いない。これは我らが住むべき土地の啓示だ」と一言。そして人々はここに移住してきたという。これが 東埔(トンボ)集落の始まりである。
日本統治時代に入って、ここは、温泉郷としての繁栄をみた。公共の浴場が警察の手によって建てられ、その傍らには小さな宿泊所が設けられた。この簡易宿泊所は今もなお、東埔警光山荘という名前で営業を続けているが、建物はすでに改築されてお り、往年の面影はなくなっている。
そして、ここは、背後に控える中央山地を越えるゲートとして広く知られてきた。山越えの道は、すでに舗装道路が別ルートで敷設されており、旧道は廃棄されてい る。東埔集落のはずれに、小さな吊橋が草木に埋れながら残っている。朝霧(あさぎ り)橋という優雅な名前のこの橋は、東埔を旅立って、最初に渡る吊橋だったものである。橋上からは、朝霧に霞む美しい滝を遠望できたという。
町並みを見下ろす高台に、小さな木造家屋が残っていた。ここは日本時代の派出所だった建物。戦後もしばらくの間は派出所として使用されていたというが、数年前に、新しい庁舎が完成し、その役目を終えた。現在は、この地に駐在する警察官のた めの住宅となっている。
表面を白いペンキで塗られた平屋の建物は、背後に控える山並みとのコントラスト が印象的だ。耐久性のよいヒノキ材とはいえ、建築後、七〇年以上が過ぎていれば、腐食だけは免れない。日本人の眼には若干、奇妙さを覚えてしまう純白の木造家屋だ が、「時間」というものは、確実に、素材を虫食んでいくものなのである。
私がここを訪れたのはちょうど黄昏時で、ほのかに夕陽が山並みを染めていた。その姿をカメラに収めていると、音もないままに、玄関先の小さな裸電球に灯かりがと もった。そして、どこからともなく炊事をする音が聞こえ、膳の香りが漂ってきた。この町を眺めてきた派出所は、すでに、人の棲家と成り変わって、生活の香りの中に たたずんでいた。 (朝日新聞アジア版8月分原稿を部分修整)
彰化市は台中の南。豊かな穀倉地帯のちょうど真ん中にある商業都市だ。大陸に近い土地柄もあって、明の時代から大陸との交易で栄えていたという。現在も台中に次いで中部第2の都市として大きな発展をみている。
彰化駅から市街地の中を10分ほど進むと、八卦山に着く。ここには大仏があり、彰化 のシンボルとなっている。標高はわずか96メートルほど。山というよりは小高い丘といった方が適切かもしれない。領台当初は日本の支配に抵抗する人々との激戦地だったこの山も、武力で鎮圧された後には、神社が建てられ、山全体が公園として整備が進め られた。神社は戦後、撤去の憂き目に遭っているが、山腹の長い石段は今もそのまま残っており、市民に利用されている。本殿跡には中国式の東屋が建てられている。武徳殿はこの八卦山の入口にあった。現在は忠烈祠となり、中華民国のために殉職した 兵士たちの英霊を祠っている。しかし、建物は日本時代のままで、純和風の様式を踏襲している。内部には畳敷きのスペースもある。
武徳殿とは言わば武道教練場である。日本は戦前、国策武道として柔道と剣道の普及を推進したが、これは植民地だった台湾でも同様だった。各地で武徳殿が建てられ、日本人の警察官と教員が中心になって柔剣道が教えられた。先に述べた畳敷きのスペースも柔道をするためのものだ。
現在、武徳殿の周辺は住宅街となっている。その中で、純和風の様式を踏襲するこの建物は非常に目立つ存在だ。この一区画だけがタイムスリップしているようにも見える。
軒下で夕涼みを楽しんでいる老人が何人かいた。彼らによれば、見慣れている地元の人はともかく、外来の人はこの建物は一体何なのかとよく尋ねてくるそうだ。確かに、何の知識もない人の目には、なぜここに日本風の建物があり、それが一体何のために建てられたのかを想像するのは難しい。
今、全台湾規模で盛り上がりつつある郷土史探索ブーム。これもあって、ここを歴史遺産として保存しようという声も出てきてきた。ここが昔、何のために建てられたものだったかを知る人は、増えつつあるという。そして、最近、台湾では中学高校生を中心に柔剣道人口は増えている。
いつの日か、またここが武道の殿堂となる日が来るのかもしれない。
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